梶谷真司

学校という空間では、「何でも言っていい」ということが徹底して否定されている。学校で子どもたちは、正しいこと、いいこと、先生の意向に沿うことを言うように訓練される。間違ったことを言えば「違う」と言われ、悪いことを言えば怒られ、先生の意に添わなければ嫌われる。もちろん正しいこと、良いことを教えるのは必要である。人の気に入ることが何かを学ぶのも重要だろう。けれどもだからといって、それ以外を排除していいわけではない。 この「それ以外」の余地が日本の学校ではほとんど禁じられているため、子どもたちは、その場にふさわしいこと、その場で期待されていることしか言わなくなる。それがうまくできれば優秀な生徒として評価され、さもなければ出来の悪い生徒とされる。許されているのは、与えられたことを決められたルールの中で行うことだけで、そのルールを守らせるために、教師は成績評価をアメとムチとして活用する。学校において考える力は、そうやって枠をはめた状態で育成される。しかし発言の自由がないところには、思考の自由も自発性もない。